善意って

「善意」で行っているのだと、本人が自覚している行動ぐらい性質の悪いものはないのではないかと思う。
たとえば、Aさんが何らかの災難に合い困っている。そこで、Bさんは、「善意」でAさんの知らないところでカンパを募った。
Aさんは大感動して、Bさんはじめ、カンパに協力してくれた人達に感謝感謝。
これはまったくもって美談だろう。
しかし、たとえば、ここでAさんが「余計なお世話だよ」とBサンたちのカンパを断ったらどうだろうか。


構図的には、「みんなが無償で協力しているのに、なんて失礼なやつだ」とAさんが悪いということになるのだろうか、果たしてそうか。このとき、Bさん、あるいはカンパに協力した人のなかには、「なんて奴だ」とAさんを非難する人もいるに違いない。


しかし、実は、ここでAさんが断ることは、誰も非難ができないことだ。Aさんは全く悪くない。なぜならBさん達は別にAさんに頼まれたわけでもなく、勝手にAさんが喜ぶであろうと思って行った「善意」の活動だからだ。
にもかかわらず、だいたいこの手の話になると、Aさんは「身勝手」ということになることが多い。


僕はこれがものすごく嫌だ。
結局のところ、「善意」「無償性」という旗を掲げつつも、その行いに対しては報われたいという、意識があるのだ、ということを物語ってるからだ。
それは善意でもなんでもないだろう。
結局、それは憐れみを抱いているだけなのではないか。そして、その憐れみに対して、自分がなにかしてあげるという行為で、自己満足を得たいといことなのではないか。


この手の行為に及ぶさいは、たとえAさんが断ろうが、「そんなものいらねーよ、バカにするんな」と切れようが、あるいはカンパしてもらいながら豪遊しようが、それに対して、Bさんたちは、何も気しない、と言い切れなきゃやるべきではないのではないか。


街角で募金活動にいそしむ人達と話をしたときも同じようなことが起きた。いろいろ話していて、「でも、僕は募金はしませんよ」と言うと、「なぜなんですか?」「どうして?」と募金をしないことがひどいことのように詰め寄る。
結局、そういう活動を行っている当人たちは、自分達は「まっとう」なことをやっていて、それは「善意」なのだと、信じている。そこが厄介なのだ。
信じるなら信じるで構わないが、自分の信じる価値観や正義や信念みたいなものが、唯一正しいものであり、それは世界、人類普遍なものなのだと考えられては困る。


キリスト教では、汝が欲することを隣人に施してあげよう、というような教えがあるが、こんなの自分勝手のなにものでもないだろう。あなたにとってうれしいことが、必ずしも私にとってうれしいことでもなかろう。私にとって嫌なことが、あなたにとっては何でもないことだってこともたくさんある。