南海ホークスがあったころ―野球ファンとパ・リーグの文化史

永井 良和 (著), 橋爪 紳也 (著)

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僕が物心ついたときには、すでに南海にはパリーグのお荷物球団のレッテルが貼られていた。チームカラーのグリーンもぱっとしないなぁと子供心に思っていたし、大阪球場みたいなおそろしく狭い球場を本拠地にしてるなんて、悲惨な球団だと哀れみの感情さえ持っていた。
関西圏の人なら知っているだろうが、南海電車というのは、その沿線も含めて、あまりガラが良くない。そのイメージもあったのだろうけど。


そうこうしているうちにダイエーに売却されて、大阪球場がなくなるなんてことになったときには、一抹の寂しさも覚えたものだ。大阪球場は、実家から近かったということもあって、よく行った球場だったからだ。今の球場では考えられないほどの急勾配のすり鉢スタジアムで、下の席から上を見上げると、空間がよじれてるような変な感覚を味わえる。ナイターなどは特に良くて、煌々と照りつける照明と、それを取り囲む暗い空が、下からの「歪む空間」の構図のなかにはまると、眩暈に近いものさえ感じるのだ。あんな感覚が味わえる球場は他にはないだろう。


また、難波という梅田とならんで大阪の二大都市の真ん中に、ぽかんと口を開けた大阪球場は、どことなく庶民的で、大阪のシンボルみたいなところもあったのではないだろうか。
僕自身は「大阪人」というイメージが(特にメディアが流布する大阪人の典型的なイメージ)嫌いで仕方がなかったのだけれど、やはり心の底ではどこかで、郷土イズムみたいなところがあって、「後楽園」や「神宮」みたいに、ちょっとおしゃれな(イメージのあった)球場にたいして、いかにも「庶民」「大衆」というようなキーワードがぴったりの大阪球場や、藤井寺球場西宮球場甲子園球場といった近畿圏の球場に愛着をもっていたところはあるかもしれない。


本書は、精緻に史実を読み解くことで、プロ野球と地域社会のつながりや、意識変化などを分析している。プロ野球の誕生から今までの史実本としても読めるし、関西という地域における文化を知るための本としても十分に読む価値がある。

この本を読むと、阪神=大阪というような構図がいかに最近できあがったものか、ということがわかるし、球団がどのような意図をもって設立され、なぜ、今のようなパリーグセリーグという2リーグ制になっていったのか、など、トリビア知識もつく。


正直言うと、僕はこの本の前半の、プロ野球誕生〜南海売却までの史実のところを読んで、なぜか涙が出そうになった。自分でも理由はよくわからないけれど、猛烈なノスタルジーに襲われたのだ。その時代に生きていたわけでもないのだけれど、すべてが無性にになつかしく、心に迫るものがあった。それが史実としてたんたんと語られれば語られるほど、無数の名もなき庶民の躍動や力動みたいなものを感じずにはおれなかった。
小説とか読んでもめったになきそうになることはないので、これは不思議な感じだ。

網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ

東 浩紀 (著), 斎藤 環 (著), 竹熊 健太郎 (著), 永山 薫 (著), 伊藤 剛 (著), 小谷 真理 (著)

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動物化するポストモダン」も読まなきゃなーと思いつつ、まだ読んでないのに、こっちを先に読んでしまった。
東さんが現代の世界像を概念化している。


1945年以降の日本のイデオロギー状況を、1970年代までの「ポストモダン以前」(大澤真幸氏によると「理想の時代」)、1970〜1995年を「ポストモダン第一期」(虚構の時代)、それ以降を「動物の時代」と呼び、とりあえずそれらのラベル下でのイデオロギーモデルを簡単に説明する。


1970年から1995年にかけて、徐々に「大きな物語」がなくなっていって、1995年以降は、「大きなデータベース」が台頭してきた、と説明しているけれど、このところで、僕はなんとなく怪しさを感じてしまい、立ち止まってしまった。確かにこの説明はすごく明快で的を得ている。「大きな物語」が一つあって、それが世の中にあるさまざまな小さな物語を制御するという構造から、世界のどの部分を読み込むかということによって、人はそれぞれで小さな世界像を得始めたということを、インターネットの登場や『デ・ジ・キャラット』などの、まさに「萌え」要素だけを組み合わせてつくられたキャラクターを例にあげて説明していて、まったくごもっともと思う。

しかし、僕は、簡単にモデル化された世界像に、単純に「なるほど」と考えてしまうような場合には、何かそこにはもっと考えなければならない重要なものが後景化されていて、都合のよい戯れだけをうまく拾い上げられているに違いない、と考える癖があって、この「虚構の時代」と「動物の時代」という時代の構造分析にも、何かトラップがあるのではないかと勘ぐってしまう。でもまぁしかし構造主義的な分析というものというのはたいていそうだ(構造主義自体が悪いとか良いとかそういうわけではないのだけれど。)
といって、立ち止まって考えるけれど、その答えとか、何に違和感を感じたのかとか、そういうことがわかるわけでもない。

大きな物語」という時、その時代に生きてない僕は、それを「国家」とか「理想」とか「道徳」とか「社会主義」とか、自由」とか「宗教」とか、抽象的な概念で考えるけれども、はたして「大きな物語」というものがほんとに「あった」のか。これまた存在として取り出して、「はい、これが『国家』です」と見せることができないものなので、結果的に、後から現象を捉えて、構造を見出して、「あったに違いない」と思うしかない。


両親などを見ていると、「血縁幻想」的なものに取り付かれているように思えるけれど、これなんかもやはり「大きな物語」の残骸なんだろうか。
マスメディアみたいなものも「大きな物語」を強化する装置だったのだろうけど、考えてみれば、今でも僕らはテレビも見るだろうし、新聞も読むけれど、そこに映し出されているものや、書かれていることが、真実ではないことを知っている。事実として構成しようとしているかもしれないけれど、真実ではない。


あまり関係ないけれど、ゴダール「映画史」のなかで、僕らが映画と思わされているものは、ハリウッド的なモードにすぎないのであって、あれは映画ではない、というようなことを言っていたけれど、今はみんなそんなこと気づいてるんじゃないか。気づいていて、なおかつそれでも別にいいやと享受しているんじゃないか。


でも、考えてみると、こういう構図が実は、それ自体が一つの大きな物語なんじゃないかという気もしてくる。
大きな物語がなくなった、ということそのものが大きな物語として機能しだす... 誰かがポストモダンは、自分がのっかかっている枝を切り落とすようなものだ、ということを言ってたけれど、まさにそんな感じか。

休日の過ごし方

休み。原稿書かなきゃと思いつつ、とりあえず飯を食いに四条に出かける。四条錦の「マルキ」で親子丼定食を食べる。なにかの雑誌で紹介されてた。蕎麦屋のどんぶりとカレーはうまいという固定観念を僕は持っているので、ここの親子丼もうまいと思った。ほんとにうまいかどうかなんてたいしたことなくて、自分がうまいと思ったものがうまい。そして、自分がうまいと思うのは、おそらく単純な生理的、肉体的な反応ではなく、食べるという行為に絡むさまざまなコンテクスト(雑誌に紹介されていたとか、蕎麦屋の丼はうまいというような観念、誰といつ食べるかとか)において決定されるのだろう。なんてことを親子丼食べながら考えていた。

スグに帰って、原稿にとりかかれば良いものの、CD屋に寄ってしまい、奥田民生のライブCDと、キリンジの「For Beautiful Human Life」を買ってしまった。

そこからでもスグ帰ればいいのに、ふらふらと茶屋に入ってしまい、チーズケーキとカフェオレで1時間ちょっと潰してしまう。町家を改造した茶屋なのだが、かかってるイージーリスニングがいただけない。あー、ジャズ喫茶に行けばよかった。

家に帰り、買ってきた奥田民生を聴く。ライブ版なんで、新しい曲が入ってるわけでもないのだけれど、今、手元には民生を聴ける音源がまったくないので、久々にじっくり聴いた。
ついで、キリンジ。あいかわらず職人だ、この兄弟は。でも、本作はあんまり歌詞に深みを感じないんだな。気のせいかな。

阿修羅ガール

舞城 王太郎 (著)
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煙か土か食い物』に対して福田和也がこんなことを言ってる。

やれやれ、また、奇天烈な書き手があらわれたもんだね。こいつは、とんでもない、ろくでもない、得体の知れない、厄介な代物だ。本格の仕掛けとゴンゾーな文体、ナメきった世界観と考え抜かれた構成。どっちにしたって救いのない世界での、見境のない馬鹿騒ぎと解決などありえない問いへの安っぽいけれど心情あふれるカタルシスがグッとくる。
やりやがった。
まったく楽しみな奴だよ。


福田和也のこの言葉が契機になったわけでもないだろうが、舞城王太郎という名前は、その後、推理小説という限られた世界から、文学界全般が注目する新生代の書き手の代表名として流布していく。そして、『熊の場所』で三島賞候補となり、ついにこの『阿修羅ガール』で三島賞を受賞。名実ともに、「今」を代表する作家へと駆け上がった。

衝撃的なデビュー作から舞城を追いかけている一ファンとしてはうれしい限りだ。僕は文学ももっと消費されなければならないと思っているから、舞城のような書き手が閉塞感のある文学界の突破口になって欲しいと心から思っている。


「文学界の閉塞感」という言葉を安易に使ったが、それは村上龍村上春樹高橋源一郎が70年代後半から80年代初頭にかけて登場し、新しい文学のモードというか、世界や社会と対峙する、再構成する新しい言葉を小説という形式に持ち込み、商業的にもある一つの成果を果たしたような、ブレークスルーが、90年代以降の文学界にはほとんど見られなかったということを意味している。一時期まではそこに確かなる息吹や世界を再構成する言葉がつまっていた詩は、今や完全に死につつあるし、小説界では島田雅彦大江健三郎批判的な位置から登場したことと、保坂和志のような人がゆっくりとではあるけれど、着実に少しづつカチコチに「小説らしさ」みたいなものに染まりきってしまった小説界に風穴を開けてきた、といような小さな動きは見えたものの、ブレークスルーとなるような、ヘビー級のパンチを繰り出せる若手は登場していなかった。そこには、渋谷系などというラベルをはられて登場したえらく保守的な若い書き手や、今なお「小説」とはこうあるべきという前提を無意識に抱えて、感傷的なストーリーを書く作家たちがいるだけだった。(僕は阿部和重などの一部の若手が嫌いではなかった。いちおう現代に生きる人間として、「今」の作家がどのように世界を捉えようとしているのか、世界に向かおうとしているのかを知ろうと読み続けていた。中には純粋に面白いと思える作品もいくつかあったことは確かだ。しかし、阿部和重の「ニッポニアニッポン」を読んだとき、タブーとされていたテーマに挑むというようなことを、小説家としての矜持と考えているようなところが見えて、そういう態度もそもそもモードなんだということを自覚してるのか、この人は?と疑問に思い、それ以降はあまり彼らの書くものを熱心に読まなくなった。もしかしたら彼らが書いているのは、保坂和志が言うように、絵を描くのに「書かれた絵」を見て、描いている、というようなものなのかもしれない。)



舞城王太郎が面白いなと思うのは、彼のつむぎだす言葉に、確かに「今」の息吹が感じるからだ。現代に生きて、小説を書くというなかで、今が言葉を反映する、あるいは言葉が今をつくりだす、という感覚は軽視しちゃいけないはずだ。

「世界」とか「社会」とか、そういった大きな概念の言葉が嘘っぽく感じられてしまう「今」のなかで、それでも「今」をどうやったら言葉は捉えることができるのか、ということを考えることは小説家にとっては極めて重要な自覚ではないか。
そして、舞城の文体は、それが意図的なものであったとしても、どうやってもこのような文体からしか捉えきれない「今」をつかもうとしている。
知的遊戯としての「文学」ではなく、大衆とか、民衆とか、そういうところから湧き上がる力動が、舞城の文体にはあるんじゃないだろうか。なので、「阿修羅ガール」の最も優れた書評とは、「意味わかんないけど、すげー面白れー」というもので十分なはずだ。意味や解釈を求めなければ、文学や小説が成り立たないわけではないだろう。ここには明らかに「今」が見えるのだから。それで良いのではないか。


今日は会社の掃除で、休みなのに通常の出勤時間より早い時間に事務所に行く羽目になり、結局、午後3時過ぎまで束縛されてしまった。あー、原稿すすまねー。

ビル・ゲイツの面接試験―富士山をどう動かしますか?

ウィリアム パウンドストーン (著), William Poundstore (原著), 松浦 俊輔 (翻訳)

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つい最近もテレビでIQを計るなんてのがあったけれど、あの手の「頭の体操」的問題を難なく答えられる人を見ると、僕などは「あの人は頭がいいなぁ」とついつい思ってしまうのは、実はかなり偏ったものの見方、考え方なんだろうなぁ。

僕はパズルは得意な方だとは思うが、それはパズル特有の方式というか、考え方とかを「覚えている」というだけだ。パズルには一定の考え方とか筋道とかがあって、「逆転の発想」とか「ちょっとした工夫」とか、そういうもので簡単に解決できるようにできてるものがほとんどだけれど、それらは同じような問題を見たことがある、やったことがあるだけで、たいてい解けてしまう。

テレビでやってたIQ問題も、解いていたけれど、特に数列とか、数学とか、論理パズル系のものというのは、ほとんどが過去に似たような問題を見たことがあったので、簡単に解けた。

面接でパズルを使うことで、面接特有の質問にあらかじめ答えを準備しておくことを防ぎ、本来のその人の頭の回転の速さとか、そういうものを見る、ということが出来るのかもしれないが、実際、パズル好きの人というのは、多くのパズルのパターンを理解しているので、予め出題されそうな面接官の質問を記憶しているのと同じようなものではないかという気もしないではない。

僕らは子供の頃から、IQというものがあり、IQというのは「知能指数」というやつで、これは勉強ができるできないというよりは、その人の「本当の知性」というものをあらわすものなのだ、というようなことを教えられ、そしてIQをはかる問題というのが、へんてこなパズル問題が多いところから、パズル問題に強い人間というのは、勉強はできなくても知性は高い、というような考え方をいつのまにか植えつけられている。

ここでカッコつきで「本当の知性」という言葉を使ったが、このあたりですでに形而上学的というか、何か「知性」というものが測定可能性を持って存在し、「知性」こそが実は人間にとって重要なのだというような、あやしい観念が漂ってる。

IQという指標は、「勉強ができない」(日本の場合は特に勉強=暗記になるのだろうが)人を救う指標ともなりえるが、その裏返しとして、IQの低い人への蔑視、偏見をはぐくむ可能性も十分にある。(勉強もできず、IQも低い人は、どうすりゃいいのだ?)

そもそも知性や知能を定量化しようという試みが、歴史的にみても、ひどく偏った民族観から生まれてきているわけで、本書にもあるように、IQが高い人間が成功しているわけでもなく、IQが高いか低いかなんてことは、実は人生において、人においてとりたてて重要なことではないわけだ。

プロフィット・ゾーン経営戦略―真の利益中心型ビジネスへの革新

エイドリアン・J. スライウォツキー (著), デイビッド・J. モリソン (著), Adrian J. Slywotzky (原著), David J. Morrison (原著), 恩蔵 直人 (翻訳), 石塚 浩 (翻訳)

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ザ・プロフィット 利益はどのようにして生まれるのか
エイドリアン・J・スライウォツキー (著), 中川 治子 (翻訳)
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「ザ・プロフィット」の方を先に読んでいて、今回、あらためて「プロフィットゾーン経営戦略」を読んでみた。

「ザ・プロフィット」では、23の利益モデルをあげていたが、「プロフィットゾーン経営戦略」では22である。

「ザ・プロフィット」は、「ゴール」シリーズのように、小説形式で23の利益モデルの解説がなされるわけだが、(あれは小説形式にする必要があったのかどうか。ほとんど意味がないような気がする) 「プロフィットゾーン経営戦略」では、いくつかのモデルをピックアップし、そのモデルを採用した企業の事例と戦略の変遷を土台として、いかに利益というものが、製品やサービスではなく、ビジネスモデルから生まれるかということを説く。

「ビジネスモデル」という言葉を使うと、そこには顧客不在の響きもあるのだが、本書で繰り返し主張されるのは、顧客を中心においてビジネスモデルを考えることだ。

本書でとりあげられているコーラや、インテルマイクロソフトといった企業は、あまりにも巨大なので、自社のビジネスにはあてはまらないと考えてしまうのは早計だ。これら企業が、いかにしてビジネスモデルを変更してきたか、そこから利益を増やしてきたかということを見ていくと、そこにはどんな業界の、どんなサービス、商品にもあてはまる何かを発見することができるだろう。


利益が生み出されるモデルから、ビジネスモデルを分類するというのは発想として面白いし、なぜ誰もやらなかったのか不思議なぐらいだ。ただ、「ザ・プロフィット」だけを読むと、なにかこの23の利益モデルを自社にあてはめてみたらということで考えてしまい、そこには顧客の観点が入らなくなってしまう恐れがある。「プロフィットゾーン経営戦略」と併せて読むことで、そういった誤読はなくなるだろう。

死ぬまでにしたい10のこと

http://www.shinumade10.jp/main.html

余命2ヶ月と宣告されたら....
似たような状況設定の小説やテレビドラマ、映画は今までにもいくつもあった
だろう。
極めてドラマチックな設定にもかかわらず、それはいつでも自分にも起きえる状況なだけに、観る人をドラマに引き込ませる。


ところが、ドラマを構成しやすいテーマだけに、それが仇となり、まるで嘘っぽくなってしまうという危険性も持ち合わせているわけだ。
この手のストーリーは、劇的にしようと思えばいくらでも劇的になってしまうだけに、ストーリーの作り手が自制を効かせなければ、どうしようもない話へと転がり落ちてしまう。例えば、余命宣告された主人公が自暴自棄になったり、そういった自分への葛藤を抱えながら、周りの人間の助けなども借りて、生きるということの実感を最後まで味わい、そして周りの人間も「生」にたいして、あらためて考えさせられる、というような話だ。どこかで読んだり、観たりしてないだろうか?

この映画の場合は、映画の時間では、医師と余命宣告を受けた本人アン以外は、最後までそのことを知らないでいる。そのため、周りの人間と主人公とがぶつかったり、葛藤したりということがない。周りの人間から見れば、アンはそれまでと変わらず普通なのだ。ただ、観ている側では、アンの境遇を知っているため、子供たちを抱きしめ「愛している」囁くアンの姿や、旦那とは違う男性と抱擁する姿に哀しさがこみあげてくる。
演出として哀しさを意図的に醸し出したり、劇的な状況をつくらないだけに、何気ない日常が、いとおしく美しく映るのだ。


役者達もすばらしかった。
アン役を演じたサラ・ボーリーはほんと良い役者だと思った。また、アンの隣人として、アンが自分が死んでしまった後に、子供達のお母さんになって欲しいと願う同名の「アン」を演じたレオノール・ワトリングも良かった。


関係ないが、
八月のクリスマス」でも、主人公が自分が死ぬということを理解しつつ、日々を大事に過ごしていく主人公が描かれていた。「八月のクリスマス」でも、ドラマをあえて盛り上げず、たんたんと描くことで、すべてのシーンが愛しく観えた。こちらも傑作。